涙を流すということ

 土曜日の診察中に、患者が涙を流した。医者に身の上話を聞かせている最中のことだった。
 これは大きな進歩である。今までは泣くことすら許さなかったのだから。ましてや甘えや泣き言など絶対に許さなかった。少しでも甘えの心が生じると、それをねじ伏せるための別人格が現れ、できる限りの暴力を自分の肉体にぶつけるのである。そのせいで、全身打撲で何日も起き上がれないこともあった。
 なぜこのようなことになったのか。それは、自分に厳しくあることが社会に迎合する道だと信じきってしまったからであり、その原因は母親にある。物心がついたかどうかの頃に母親に「きらい、ほしくなかった」と言われ、以後十数年に渡って、まるで呪いのように「馬鹿、弱い、足手まとい」と言われ続ければ、それが体に染み付くのだろう。
 よく誤解されるのだが、この人はこんな目にあいながらも母親を恨んではいない。正確には恨みの心をねじ伏せている。それを理解できない人々から「でもね、そんな目にあっても、お母さんを恨んではいけないよ」と言われるのは、大きなお世話を通り越して大変危険なことである。彼女は、踏み潰されたことを誰にも知られずに死んで行く蟻のような気持ちだろう。どこにもぶつける当てがない怒りや悲しみは、自分に向けるしかない。いや、いっそのこと、なくしてしまえばいい。そうすれば誰も恨まずに済む。その究極の方法は、自分自身を消すことだ。
 このような理由から、僕は彼女に「人を恨むこと」を勧めてきた。それは自分を許すことと直結しており、そうしないと自分の命を長らえる理由が強まらないからだ。もちろん問題は多々あり、冗談抜きで死ぬような目にあいながら事を進めてきたが、最近はそれも和らぎつつある。