セルマさん

下の階に住んでいるおばさんは変人呼ばわりされている。
長老からは「あの人は変わり者だから関わるんじゃない」と言われた。一人暮らしで、昔は隣の団地に住んでいたらしいのだが、トラブルを起こしてこっちに引っ越してきたらしい。
それでも、これまでは実害はなかった。問題があるとしてもせいぜい、自治会を敵視していたり、夜中に人目を盗んで野良猫に餌を与えたり、ベランダに鳩を呼ぶなど、その程度の奇行であり、特に害はなかったので、別に気にしたこともなかった……いや、やっぱり気持ち悪い。鳩を呼ばれるのは迷惑だし、街灯の下でミュージカルのようにステップを踏みながら猫と戯れる姿を目撃してしまったときの気まずさは筆舌に尽くしがたい。こちらに気づかずにバックステップを踏みながら猫たちを手招きするおばさんが早く通り過ぎるよう願いながら、僕らは軽自動車の中で息を潜めて待っていた。
ともかく、そんな目に遭いながらも、これまではさほど深刻にとらえてはいなかったのである。僕らは下の階のおばさんのことを、闇の中で一人踊るドリーマーという意味を込めて「セルマさん」と呼び*1、車の中での気まずいひとときも笑いのネタにしていた。
ところが最近、笑い事ではなくなってきたのである。
セルマさんが自室の玄関の前に白い粉をまくようになったのだ。出社しようとして階段を下りた先でこんな物を見せられたときの衝撃といったら……。その昔、統合失調症の男が玄関先に小麦粉をまくという事例を見たことがある。小麦粉に残った足跡で侵入者を察知するのが目的だと自分で言っていた。それと同じ理由なのだとしたら、この人は統合失調症なのかもしれない。そう思うと怖くなってきた。
ともかく気味が悪いし、小麦粉らしい白い粉を踏まないように階段を上り下りする日が続いていたが、ある日、ついに誰かが小麦粉に跡を付けた。そしてセルマさんは、床に油性ペンで日時を書き、さらに「撮影済」という一文を付け加えたのである。それは今日の時点で3つに増えていた。
僕らには見えない何者かと戦っているらしいセルマさん。たぶんきっと猫より鳩より精神科のお薬が必要だ。そして僕には事の次第によってはしかるべき場所に通報する勇気が必要かもしれない。

*1:いちおう書いておくが、元ネタである映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はこんな内容ではない。美しくも残酷な名作である。